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PRODUCTION NOTE

  • 企画から完成まで6年、
    二度の撮影延期、
    幾多の困難を乗り越え
    実現した奇跡のプロジェクト

    映画『宝島』のプロジェクトが始動したのは、2018年6月。真藤順丈による小説「宝島」が出版されるや否や、五十嵐真志プロデューサーと大友啓史監督は、その圧倒的な熱量の人間ドラマと沖縄の歴史的背景を描いた物語の力に強く心を打たれ、即座に映画化に向けて動き出した。当時、大友監督は『るろうに剣心最終章』の製作に奔走していたが、多忙を極めるなか何度も沖縄に足を運び、準備を進めた。同年、小説「宝島」は2018年下半期の直木賞を受賞。翌2019年の夏に企画が動きだした。そこから本格的な企画・脚本開発に取りかかる。
    2025年は、本土復帰から53年、戦後80年という節目の年。月日とともに歴史を語り継ぐ人は減少し、戦争の痛みは風化の一途をたどる。そんな時代だからこそ、何としても『宝島』を通じて伝えたい想いがある、それをこの時代に届けたい─。当初、沖縄の本土復帰50周年のタイミングでの公開を目指したこの壮大なプロジェクトは、二度の延期、三度目の挑戦を経て、いま世界に羽ばたこうとしている。

  • 入念な時代考証で描かれる
    “沖縄がアメリカだった”20年

    二度の延期のなかで【脚本】は、担当者の交代を経ながら継続され、最終的に高田亮を中心に大友啓史(監督)と大浦光太によって開発された。高田は、戦争を知らない世代かつ東京生まれの自分が書いてもいいのだろうかという葛藤もあったが、「戦後の歴史を網羅しながら進んでいくこの物語(原作)に挑戦してみたい、また大友監督と仕事がしてみたい」と引き受けることを決意する。実際に沖縄を訪れ、当時刑事だった人、基地に対して運動をしていた人、(Aサインなどの)レストラン経営者など、さまざまな人から話を聞き、彼らから受け取った感情を脚本のなかに落とし込んでいった。企画・プロデュースの五十嵐も「小説が持っている熱量を、映画へとしっかりと受け渡すことができた」と語っている。
    映画『宝島』の台本は、約100のシーンで構成されている。沖縄ロケをメインに、南紀白浜ロケ、東宝スタジオのセット、関東近郊ロケなど、撮影は2024年2月下旬から6月上旬、約4ヶ月間にわたって行われた。今回の『宝島』は、クランクイン直前にコザ暴動シーンがオープンセットからスタジオ撮影に変更になるなど大きな調整があり、さらに日々天候に左右されるロケ撮影のスケジュール調整が実は大変な作業だった。撮影時の統括責任者であり調整役で、現場に一番近いプロデューサーでもある【ラインプロデューサー】の村松大輔は、「沖縄の撮影は、天候を読むのが難しかったこともあり、何百人のエキストラに集まってもらったのに、大雨でデモシーンの撮影を中止にしなければならない、という決断もありました。撮影期間中は毎日、【スケジュール】担当の桜井智弘と天気の話をしていました。難解なパズルのようなスケジュールだったと思います」と語る。

    主なセットの取り組みとして、辺野古アップルタウン(※1)に作られた特飲街のオープンセット、嘉手納基地(フェンス)、小学校(戦闘機墜落事故のセット)、コザ暴動のあったゲート通りの再現など、通常の映画でメインとなるようなセットをいくつも制作した。映画『ハゲタカ』(09)以来の大友組の参加となる【美術】の花谷秀文は、「物語としては、クライマックスのコザ暴動に向かっていくけれど、ゲート通りの再現だけでなく、全部が全部力を込めるシーンばかりだった」と語る。アップルタウンのオープンセットは約2ヶ月半かけて街を制作、既存の建物を利用しながら特飲街を再現した。現在はコンクリートやアスファルトになっている道路に土を敷きつめ、看板やポスターは手書きにこだわり、その年代の装飾品などは全国各地から集めた。当時を知る関係者が特飲街のセットを訪れた際に、昔を思い出して思わず涙ぐんでしまうほどのリアリティだった。この映画は約20年間の沖縄が描かれ、1958年の特飲街の撮影後は1970年の特飲街へ、街の変化でも時代の流れを見せている。その他のロケやロケセットの場合も、コンクリートの壁を石垣に変えたり木製の塀や椰子の木を植えたりするなど、細やかな工夫によって1952〜72年の沖縄を映し出す。また、ヤマコの家は伊計島の古民家を改装したロケセットが用意された。

    『宝島』のセットにはアメリカ車も数多く登場する。グスクと徳尚の車はシボレー、レイはコンバーチブルのポンティアックチーフテンなど、沖縄での撮影で用意したアメ車は約50台。当時の沖縄は右側通行で左ハンドル車しか無かったことから、年代ものの車を探す作業に左ハンドル車という難易度の高い条件が追加された。日本全国はもとよりアメリカなど世界から取り寄せた。【劇用車】を担当するのは、武藤貴紀と金子拓也。マイケル・マン監督のドラマ「TOKYOVICE」など世界の監督と仕事をする彼らにとっても、『宝島』は「今までやったことのないレベル」の作品だったという。「特飲街のオープンセットがすごくよくできているので、そこに集めた車を置くと、もの凄い雰囲気が出る。僕らも楽しかったし、わくわくしました」(武藤)、「大友監督のリサーチ力に驚かされました。作品に対するアプローチはマイケル・マン監督と通じるものがあると思います」(金子)。特飲街やコザ暴動のシーンでは車の衝突や炎上もあるが、本物の車を使って撮影は行われた。

    ※1 アップルタウンとは、辺野古の一角にある地域のこと。米海兵隊基地「キャンプ・シュワーブ」が近いことで、1960年から1970年代の最盛期には約2000人が住み、スナックやバー、クラブなど200店舗が集まっていた。現在も当時のアメリカン・レトロな建物が点在している。

  • コザ暴動が起きた
    ゲート通りの再現と
    グスクの部屋のこだわり

    どの部署も戦後の沖縄史を学んだうえで準備に臨んでいる。【装飾】の渡辺大智は、『るろうに剣心』シリーズ、『秘密THETOPSECRET』『ミュージアム』など多くの大友作品に参加しており、今回はリサーチに3〜4年をかけた。戦後の沖縄の公文書や写真を集め、実際に残っている場所を訪れ、当時の人々の話を聞き、沖縄のアメリカ統治時代1950〜70年代を段階的かつ徹底的に再現する。20年間を描くなかで大きな変化を見せるのが1960〜61年。その裏付けとなったひとつに、60年代以降に靴を履き始めたという背景がある。映画のなかでも50年代はグスクもふくめ裸足。俳優たちは【特殊造形】が用意した肉足袋をつけて撮影に臨んだ。

    「コザ暴動の撮影は、特に気合いが必要な作品の肝だった」と語るのは、【監督補】の田中諭。『るろうに剣心』シリーズをはじめ、ドラマ「白洲次郎」や「龍馬伝」でも大友監督の右腕として撮影現場を動かしてきた経験を、今回も遺憾なく発揮する。「この映画は、沖縄史の一大クロニクル的な作品ですが、実はそのなかに、一人一人の正義や息づかい、未来が見えないなかで生きることに必死だった人それぞれが信じたものがある。コザ暴動は一夜の出来事ですが、沖縄で起きたその暴動をしっかり伝えたいし、描きたいと思いました」。民衆の感情が爆発するコザ暴動は、約20分という長尺で描かれる。
    コザ暴動のシーンは、当初オープンセットでゲート通りを再現する予定だったが、撮影中にセットに変更となる。東宝スタジオにアスファルトを敷き詰め車道部分を再現、当初オープンセットで使う予定だったセットの一部を組み、ブルーバックで撮影する。美術チームと【VFXスーパーバイザー】小坂一順が率いるチームの連携によって、当時のゲート通りの街並を再現する。VFXの作業を行ったカット数は、最終的に615に及び、約50人のスタッフが稼動した。実際のゲート通りは、嘉手納基地の第2ゲートから胡屋十字路まで距離にして約500メートル、スタジオの長さは41.8メートル。限られた空間で通りの奥行きをどう出すのか。さらにそこを400〜500人の民衆が動き回る。照明弾も上がる。小坂は「照明弾として照明が生みだす光と影、その強弱を人物の動きに合わせる作業が特に大変だった」と語る。そんなカオスなセットのなかで、チバナ役の瀧内公美は、横転した車に上り「行け行け行けー」と民衆をあおる芝居を自ら考案して演じた。ゲート通りの建物や看板といった大掛かりなセットに加え、装飾部がこだわったのは、いかにスタジオ内に暴動が起きたときの雰囲気を作るかだった。たとえば、沖縄から大量に島バナナを取り寄せてセットの通りに散らすなど、街の臭いやゴミにまで力を注いだ。時代的にパソコンは普及していないことから、看板のデザインはもちろん手作業。材料も古材を使っている。また、主人公を象徴するグスクの部屋をどう作るかが装飾としての腕の見せどころだった。作られたグスクの部屋は、6畳一間。ベッドには捜査資料が山積みで、壁には嘉手納基地の地図が貼られ、新聞や聞き込みメモなどびっしりと埋め尽くされている。グスクが刑事としてどんな生活を送っているのか、グスクの日常とそれまでの歳月がひと目でわかる渾身のセットだ。

  • 撮影と照明の阿吽の
    連携によって
    映し出される嘉手納基地

    映画の撮影において、撮影部と照明部は、画の設計、カメラの位置と動き、カラーバランス、照明機材配置の調整など、連携が特に重要になってくる。【撮影】の相馬大輔と【照明】の永田ひでのりは、今回が初タッグでありながらも息の合った連携をみせた。相馬はこの作品におけるトーンを探すなかで「グスクたちの時代に一緒に生きている感じを表現したかった」と、ドキュメンタリーチックなトーンを意識した。各撮影現場で即対応できるようにと、事前にレンズやフィルターなど38ほどのトーン設定を準備して撮影に臨んだ。カメラは基本2台体制、コザ暴動などは4台(+余裕があればもう1台)のカメラを使用。ドローンも活用した。事前準備で大友監督にトーンについて相談する際に、相馬が参考例として挙げたのは『シティ・オブ・ゴッド』『マッドマックス』『デリカテッセン』、そしてウォン・カーウァイ監督の初期のタイトルなどだった。
    嘉手納基地は当然のことながらロケセットである。沖縄の広大な敷地にフェンスを建て、基地を表現する。オンが先頭をきってフェンスを乗り越え、グスクやレイ、戦果アギヤーたちが後に続くシーンは、物語の始まりとなる重要なシーン。フェンスから見える基地を表現するにあたっては、広さと奥行きが必要となるが、なんとフェンスと照明のみで夜の嘉手納基地の風景を作り上げた。クレーンも使いながら戦果アギヤーの躍動感あるシーンがカメラに収められた。
    映画のなかで何度か映し出される照明弾も照明部の力作だ。照明弾は、沖縄がアメリカだった時代であることを示すアイテムであると同時に、永田は「照明弾=みんなを照らす光=オンちゃんだと捉えていた」と語る。夜の浜辺でカチャーシーを踊るシーン、ヤマコの就職祝いの夜、そしてゲート通りのコザ暴動。特に暴動シーンでは一番派手な照明弾を打ち上げた。『るろうに剣心』シリーズや『レジェンド&バタフライ』などの大友監督作をはじめ、数多くの撮影現場を経験しているラインプロデューサーの村松は、「どの部署の取り組みも、日々感心させられっぱなしでしたが、なかでも照明弾のアイデアや嘉手納基地の見せ方は、照明の可能性を見せてもらいました」と、語る。また、オンとはぐれてしまう嘉手納基地内のシーンは、世界遺産に登録されている歴史的なグスク(城を意味する言葉で、琉球王国の時代に築かれた城跡を指す)のある今帰仁城跡の森で撮影を行った。

  • 徹底的に本物にこだわる、
    エンターテインメントのなかの
    リアリティ

    スタントを任されたのは【スタントコーディネーター】の吉田浩之と後藤健、岡本正仁。彼らを筆頭に30〜40人のスタントマンが『宝島』のアクションシーンを支えている。コザ暴動のシーン、米兵狩りなどの戦闘シーン、拉致されたグスクなど、アクションシーンも多い。外国人キャストや米兵役については、オーディションの段階でアクションがどれだけできるかも選定ポイントだった。戦果アギヤーたちが3メートルのフェンスを軽々乗り越えるシーンがあるが、実は想像以上に難しい。スタントチームは下準備と練習をしっかり行い、絶対に危険なことがないよう撮影に臨む。大友監督は「芝居の延長線上にアクションがあること」を常に大切にしており、それは吉田や後藤らが目指すアクションとも合致。グスクは刑事で武道を嗜んでいる動き、オンとレイは兄弟なのでどこか似ている部分があるなど、キャラクターにも違いを出している。クライマックスのコザ暴動のシーンは、延べ2,000人を超えるエキストラも参加し、想像を遥かに超えたインパクトを持つシーンが生まれた。そしてコザ暴動が起きたゲート通りから嘉手納基地へ向かうレイとグスク。彼らが対峙する嘉手納基地内のシーンは旧南紀白浜空港の滑走路がロケ地となった。アクションと10ページにわたる重厚な芝居は、3日間かけて撮影された。

    【沖縄ことば指導】としてクレジットされているのは、今科子、与那嶺圭一。今は、大友監督がNHK時代の演出作「ちゅらさん」も担当している縁もあり、今回は脚本開発の段階からセリフ監修として参加している。当時の声=1950〜70年代の沖縄の人々の想いを伝えたいという気持ちもあり、コザ暴動やデモのシーンでは、エキストラのセリフにも力を注ぐ。実際のコザ暴動の記録音源から群衆の言葉を一つ一つ書き起こし、当時を知る世代に話を聞き、それをエキストラのセリフに反映させる。エキストラには事前の稽古でその背景や言葉を伝え、群衆の一人一人が“声を持つ存在”となるよう丁寧に準備を重ねた。今と与那嶺は、主演の妻夫木をはじめメインキャストの沖縄ことばは「完璧」だったと太鼓判をおす。特にグスク役の妻夫木は19年前、コザを舞台にした映画『涙そうそう』をきっかけに地元の人々と交流を続けてきたこともあり、言葉も身も心も“うちなんちゅ”だった。そんなグスクの相棒刑事・徳尚を演じるのは、塚󠄁本晋也。戦争の恐怖をあぶり出した『野火』、戦争を民衆の目線で映し出した『ほかげ』など、戦争の爪痕を映画として描いてきた塚󠄁本が、俳優としてこの作品に参加していることも意味深い。デモやコザ暴動の民衆役には沖縄出身者も多く参加している。主要キャラクターのひとりタイラ役には尚玄が選ばれた。「タイラは、沖縄の血とインテリジェンスを感じさせる役、尚玄はまさにぴったりだった」と大友監督。
    ヤマコのおばあの法要(四十九日)、ヤマコの就職祝い葬儀など、親しい人たちが集まるシーンでは、【フードコーディネーター】の嘉陽かずみによって、沖縄の重箱料理、お祝い事に欠かせないカタハランブーや沖縄を代表する菓子サーターアンダギーが用意された。重箱料理は沖縄の伝統的なご馳走で、法事などでご先祖に供える料理。沖縄では身近なものとして親しまれている。
    コザ暴動やデモのシーンでのエキストラは100単位、多い日は300〜500人のエキストラが出演する日も少なくなく、【ヘアメイクディレクター】の酒井啓介と、【衣装デザイン】の宮本まさ江は、それぞれチームを編成して撮影に臨む。ヘアメイクも衣装も、当時の沖縄の人に見えるかどうかを大切にした。酒井は、撮影前に実際に沖縄に行き、地元の人たちの日焼けや髪質・まつげの特徴などが環境に由来していると実感し、現地で感じた点を顔づくりに反映させた。妻夫木をはじめメインキャストは十代から三十代までの20年間を演じているが、若い年代については髪形で若さを表現している。衣裳も20年間の変化を映し出す。十代のグスクたちの衣裳には琉装のなごりが見られるが、戦後から1970年にかけてのファッションは、和洋混合のハイブリッドな洋服が流通した時代。当時、沖縄で流通していたであろう素材や柄の服が用意された。ヤマコやチバナのファッションには時代の流れが色濃く出ている。一方、グスクの衣裳は、無地が多く、色もベージュ、紺、グレーというアースカラー。そこから読み取れるのは、グスク=城塞をイメージできる色であることだ。

    時代考証、民族考証、軍事考証など、各種専門家もスタッフクレジットに名前を連ねている。そのなかで【米軍所作指導】を担当するのは、元アメリカ陸軍大尉、軍事コンサルタントの飯柴智亮。選ばれた俳優を本物の米軍の人間に近づけるため、所作はもちろん銃の構え方や軍人特有の言い回しなどを指導した。最初のオーディションで、ドリル・アンド・セレモニーと言われる軍隊での基礎的な動き(気をつけ、休め、右向け右、回れ右といった動き)をやってもらい、向いている役者を厳選した。苦労したのは、1950~70年代の米兵、しかも精鋭部隊ではなく空軍のSPレベルに特化させることで、飯柴は「当時は無かった動作や言語などを使わないよう、細心の注意を払いました」と語る。映画の舞台は飯柴が産まれる前であるため、不明な部分は軍事技術体系の進化過程にスペキュレーションを織り交ぜて指導した。

  • 大友組常連による
    プロフェッショナルな仕事の数々

    【録音】部を率いるのは、大友監督作品の常連でもある湯脇房雄。大友監督はひとつのシーンを一連で撮影し、引きと寄りを同時に撮るため、録音部はワイヤレスマイク主体で撮影に臨む。湯脇が録音のプロフェッショナルとして常に心掛けているのは「映画のリアルを追求すること」。映画は作られた世界ではあるが、撮影するなかのリアルを記録していくものでもある。撮影後に声だけ収録するアフレコという方法もあるが、リアルを追求するために同録(同時録音)を第一に考え、それが難しいシーンの場合もアフレコよりオンリー(セリフのみ=オンリーを録ること)が基本の現場だった。また、沖縄の空は数分おきに飛行機が通り過ぎるため、撮影には過酷な環境でもあった。

    【音楽】を担当するのは佐藤直紀。彼もまた『ハゲタカ』にはじまり、数多くの大友作品の音楽をつくり出してきた大友組の常連だ。今回、佐藤が試みた工夫のひとつは、たとえば小学校に戦闘機が墜落するシーン、最後にグスクとオンが向きあうシーンなどで流れる原始的な曲。「グスクらがどうやって困難を乗り越えていこうとするのか、怒りや悔しさ、悲しみ、心の叫びに代用できるような音を選んで作った」と語る曲は、ブルガリアの楽器カヴァル、琵琶のルーツでもあるウード、ミュージシャンの福岡ユタカの声など、ユニークな構成。また、太陽が海に沈んでいくラストシーンで流れる曲は、エイサー(沖縄本島で盆時期に踊られる伝統芸能)に欠かせない三線や太鼓、指笛などを用い、沖縄をイメージして作られた。

    【編集】は早野亮。『3月のライオン』、『億男』、『影裏』に続いての大友組となる。大友作品は、長いカットをワンカットで見せることも、短いカットで繋いでいくこともできる、編集として選択肢が多い。そのなかで、一番時間のかかった編集は、冒頭のカーチェイスシーンだった。「この映画が持つテーマは大きくて重いので、いかに映画に入り込みやすくするか、入口(冒頭)を試行錯誤しました」と語る。エキストラ400〜500人、カメラ4台で撮影したコザ暴動のシーンも素材が多く、格好良さや壮大さを重視するのではなく、ゲート通りに集まった人々のエネルギーを失わないことを最優先として編集した。

  • 撮影期間106日、ロケ地43箇所。
    191分を演じ切きった俳優たちを
    通して見る撮影現場

    主演の妻夫木聡が魅せる、
    圧倒的な怒りの感情

    妻夫木聡の演じるグスクは、オンを探すために刑事となる。ヤマコと過ごすシーンでは穏やかな表情も見せるが、刑事という職業柄、苦悩や葛藤を表現するシーンが多い。なかでもグスクの怒りの感情が、最高潮に達するのがコザ暴動だ。ゲート通りに向かう車中で、小松(中村蒼)とダニー岸(木幡竜)と話すグスク。「我慢にも限界があんどー」と怒りのスイッチが入り、すでに民衆が騒動を起こしているゲート通りを歩きながら沸点に達し、大声を上げて叫ぶ。監督をはじめその場にいるスタッフの誰もが「震えた」「ゾクッとした」と言葉を漏らす、張り裂けそうな怒りだった。さらに、怒りと怒りの合間に、ほんの一瞬、泣き笑いのような表情を滲ませた妻夫木の繊細かつ強烈な感情は、見る者の心を揺さぶる、何とも感動的なシーンとして刻まれた。

    広瀬すずが体現する、
    太陽のような優しさと強さ

    大友監督から「太陽のような存在でいてほしい」とヤマコ役を託された広瀬すず。オンに愛される愛くるしい女性をスタート地点として、広瀬はヤマコのオンへの想いを年齢とともに変化させている。戦果で建てられた小学校に戦闘機が墜落するシーンでは、燃える校舎に向かって「オンちゃん」と叫ぶ。愛する人が行方不明で、さらに愛する人の働き(戦果)で建てた小学校が惨事となり、ヤマコにとって、オンとの夢までも奪われてしまった瞬間だ。泣き崩れて錯乱する姿は、まさに迫真の演技。その事故を境にヤマコはデモに参加するようになる。オンを想いながら、試練を乗り越え強さを得ていく女性の生き様、そしてオンがそうであったように、ウタを心配する優しさを演じきった。

    狂気の裏に優しさを滲ませる、
    窪田正孝が放つ叫び

    ヤクザとなり兄を探すレイは、ほとんど笑顔を見せない。もともとある優しさを封じ込めて生きている、目的のために強くなろうとしている、そんなレイを窪田正孝は何とも人間くさく演じた。チバナの店・ヌジュミで返り血を浴びながら何度も敵にナイフを突き刺し、倒れ込んで嗚咽するその姿には、十代の頃に戻ったかのようなレイの純粋さが滲み出ていた。狂気の先にある絶望と悲しみは、見ている側の胸も震わせる。レイの身に何が起きたのか─その出来事の詳細は、翌日ヌジュミを訪れたグスクを通して回想として映し出される。レイの想いとグスクの想いが交差するような、幻想的なシーンを大友監督はつくり出した。

    永山瑛太が放つ、英雄としての
    揺らぎない存在感

    コザの英雄でありグスクたちの憧れでもあるオン。彼の失踪理由を解き明かす物語であるため、脚本上の永山の出演シーンは実は多くない。しかし、撮影が始まり、現場で永山のオンを見た大友監督は、オンのシーンを次々と追加していった。たとえば、戦果を島民に配るシーンでは、おばあに薬を渡すやりとりを追加。小学校に戦闘機が墜落した後にヤマコがひとり浜辺で涙を流すシーンでは、かつてオンとヤマコが浜辺を歩きながら、オンが小学校を建てヤマコが先生になる、そんな未来を語る恋人同士の会話を追加している。オンの深く大きな優しさと愛情を印象的に映し出すことで、オンの不在によるグスクたちの悲しみは増し、唯一無二とも言えるオンのヒーロー像が際立っている。

    感情をぶつけ合う、
    グスクとレイの5分におよぶ芝居

    コザ暴動に乗じて嘉手納基地に入り込んだレイ、追いかけるグスク。二人が対峙するシーンは、和歌山の旧南紀白浜空港の滑走路で撮影された。向かい合う二人の会話は台本にして約10ページ、時間にして約5分の芝居だ。オンの失踪後、異なる道を歩いてきた二人が再会して感情をぶつけ合う。何度も繰り返せないような熱量の芝居を妻夫木と窪田は演じきった。そして、ヤマコとウタも芝居に加わる。青年期のウタを演じるのは、この映画で本格的俳優デビューを飾った栄莉弥。新人ながらも妻夫木、広瀬、窪田という実力派俳優のなかで、存在感のある演技を見せた。また、少年期のウタを演じているのは、栄莉弥の実の弟・光路。凄い逸材がこの映画から羽ばたいた。

    海で始まり海で終わる、
    オンからグスクへ引き継がれるもの

    オンをはじめ戦果アギヤーたちが勝利の宴を開きカチャーシーを踊ったのは、うるま市のヤラジ浜。そしてこの物語の終わりは、糸満市の北名城ビーチで撮影された。沖縄での撮影はこの日が最後だったが、撮影はようやく折り返し地点。コザ暴動などヤマ場となるシーンの撮影を残した状態でラストシーンを演じることは、妻夫木と永山であっても難しいものだった。大友監督に確認をしながら、グスクとしてオンとして生きてきた日々を振り返りながら、永山は英雄としてのオンらしさを刻み、妻夫木は決意を見せる。二人の魂が重なり合うような、感動的な瞬間が沖縄の海と共にカメラに収められた。

    (撮影期間2024年2月25日〜6月9日)